それからえんぴつ

てのひら

放課後の、静かな時間のことだった。
廊下の向こうから歩いてきた彼が、すれ違いざまに私の頭へてのひらを乗せた。
すこしずれて背中合わせのような格好で、顔は見えない。
ただ、頭に乗るてのひらの僅かな震えに想像を巡らすばかりだ。

「俺、言うからな」

と。彼はそう呟いた。
それはもし、この廊下が休み時間のようにうるさかったとしたら、
到底聞き取れる大きさではなかった。
けれど今はシンとしていて、その掠れた声を、私はしっかりと聞いた。
むしろ、聞こえなければ良かったと思った。
今がこんなに静かな時間で無ければ良かったのにと。
彼の言葉は、昨日の私の願いを叶えようというものだったというのにである。
自分のことながら身勝手なものだ。

「……ほんと、ですか」

このまま、ほんとうに彼があの人にきちんと、思いの丈を話してしまえば。
どうしたって今まで以上に距離が縮まるはずだ。
そうしたら、私の付け入る隙なんて少しも無くなる。
それを分かっていて、それでも彼のためを思ってと、
昨日ああ言ったはずなのに、もう胸が苦しい。

「嘘ついて、どうするんだよ」

彼は本気だ。いま、止めなければ本当に、彼はいってしまう。
そう思うとどうしようもなく苦しくなって、肺腑を抉るような痛みすらするというのに、
私はやはり止めることが出来なかった。

「振られたら、私の胸で泣いていいですよ」

そんな風に、強がることしか出来なかった。
彼は少し考えるように言葉を切って、私の頭に力をかけつつ言った。

「……ま、無いよりマシか」

 意地でも、笑ってなんかやらない。

「何か言いました?」

 意地でも、泣いてなんかやらない。

「いや。ありがとう」

そう言うと、彼は私の頭をかき混ぜた。
丁寧に結った髪だ。
そうだ、彼に見られることを思って一生懸命結っていたのだ。
それを彼はついこの間、私が呼び出すまで見たことすらなかった。
それを思うと悔しい。

その内に、彼のてのひらは離れていってしまう。

そして、
一歩、また一歩、彼は、私から離れてゆく。
一歩、また一歩、彼は、あの人に近づいてゆく。

その足音が、がらんとした静かな廊下に、哀しく響くのだ。
いつまでも、いつまでも、頭の奥にまで響いて、鳴り止まないのだ。

古い校舎の床が彼の踏みしめる力に僅かに軋んで。
その小さな振動だけで、足もとがぐらぐらして、
その場にくず折れてしまいそうだった。
その場に立っていることだってつらかった。
そのまま泣き喚いて、彼を引き止めたかった。

――それなのに、振り返ることすら出来なかった。

彼が廊下の突き当りまで進んで、階段を下りていってしまうまで、
とうとう微動だに出来なかった。
そうして、静かな校舎から彼の足音が消えて、
ようやく、頬を伝う涙を拭うことに気づいたのだった。

2009年3月19日 野津希美

2009年3月21日 一部修正