それからえんぴつ

 近所の家の軒下に、カップルが居た。雨の中、帰り道のことだ。
 見かけない顔だ、と思う。“見かけない顔”って、ドラマなんかで時々使われるけれど、そんなの、今のご時世で近所の人の顔なんか覚えちゃ居ない。だから、ちょっとかっこつけて思ってみた。――見かけない顔だ。
 でも、ほんとに近所の人ではないはずだ。だって近所の人間だったらこんなところで雨宿りなんかしないで帰るか、駅まで戻る。俺は駅でビニール傘を買った。最近ちょっと寒いし。

「……旅行者?」

「あ、ハイ……ここ、マズイですかね?」

 カップルの、男のほうが答える。年は、二十代後半といったところ。カップルじゃなくて夫婦かもしれないなと思い直す。新婚旅行だとしたら、行き先を間違えすぎだから、そうではないだろう。なんでわざわざ、こんな寂れた町にやってくるというのだ。

「いや、大丈夫だと思うけど……」

 ほんとのところは大丈夫かなんて分からない。軒先で雨宿りしたくらいで怒り出すような人間は、そうは居ないと思うけど。それでも、この家がそんなような沸点の低い人間の家ではないと言い切ることはできなかった。

「……あー。オネーサン綺麗だからさ、これあげるよ」

 ちょっと悩んだけれど、駅で三百円のビニール傘を差し出す。そこでいつまでも雨宿りしてたって、誰も文句は言わないよ、それか家にあげてくれるよ、そうやって言えないことに対する軽い罪悪感のようなものがあった。俺はなにも悪いことなんてしてないのにおかしい。おかしいのに、傘を差し出してしまった。

「え、でも、ねえ?」

 女がそう言って、男と顔を見合わせる。俺だって、ただの通りすがりの人が傘くれるって言い出したら戸惑う。親切すぎるなあと変に思う。そんな過ぎた親切、俺の柄じゃない。
 それでも引き下がるわけにもいかない。いまさら、ああそうですか要らないですか、なんて言えないだろ。ああ全く、めんどくさいことしちゃったなあ。何で話しかけたんだろ、俺。

「いいよいいよ。俺んち、すぐだから」

 それでも傘を受け取ってくれなかった。毒なんか入ってないわよ、ってこれはシチュエーションが違うなあ。
 俺、もう濡れてるのに。そんなに悩むなよ。とっとと受け取ってくれよ。それでお礼のひとつでも言ってくれたら、俺は、ああいいことしたなあって自己満足に浸れるんだから。もう、めんどくさいなあ!

「わざわざこんなところに観光に来て、雨に降られた災難な人たちにあげる!」

 男のほうに無理やり傘を押し付ける。そのまま突っ立っていても濡れるだけなので、走り出す。

「んじゃ! なんも無いとこだけど、楽しんでってね」

「あ……ありがとう!」

 お礼の言葉が追いかけてきたけれど、振り返らなかった。止まらなかった。代わりに軽く右手をあげる。気分は正義のヒーローだ。びしょ濡れだけどさ。
 遠慮深いカップルに幸あれ!

2009年9月27日 野津希美

あとがき

 雨天時の話が多すぎることにはうすうす気づいています