それからえんぴつ

 机の端を、小さな蚊が歩いていた。のたのたと。そうだ、そろそろ夏も終わるのだ。その証拠に、夜の空気は冷たく、フル稼働していたエアー・コンディショナーに扇風機は、羽を休めている。この蚊も夏が終われば、いや、もしかすると夏が終わるよりも前に、死んでしまうのだろう。ふとそんなことに思い当たり、叩いてしまうのも忍びなくなり、仕方が無いので歩かせておくことにした。あの素早い、パンと叩いた手のひらの間をすうっとすり抜けてゆく奴らの仲間が、こんなにのたのたと歩いている。きっと、老い先短いのだ。だから、生かしといてやるよ、なんて勝手なこと考えて、それでも、この蚊にとっては嬉しいことだったろうか?

「ごはんよー」

 呼ばれて部屋を出て、そのときちらっと蚊に目をやって、そいつはまだのたのたしていた。
 カレーライス。そういえば、いつか、カレーに蚊が浮いていたことがあった。レストランで出された食事でもなく、またパックされたレトルトでもなく、母親の作った甘いカレーだったので、「気にしないの」と言われて小さな蚊を掬い上げて捨てた。複雑な気分になったが、カレーの味は変わらなかった。今日のカレーは、あのときと違い甘くなく、むしろ辛い部類だろう。あのいつかの夏の日から、こんなに経った。味覚も変わったし、スプーンのサイズだって変わったし、ご飯の量だって増えた。それでも、本質的なところは、変わらないのだろう。

「ゴチソウサマデシタ」

 食卓を離れて、部屋に戻った。机の上の蚊は、動かなくなっていた。

2008年8月18日 野津希美