それからえんぴつ

ありがとさん

いつものように、てけてけと歩く。丘の上にある、公園へ向かって。

公園にたどり着く。ちょっとした展望台のようになっていて、我が町が見渡せる。この町で一番好きな場所。
そこへ、毎日毎日行く。習慣である。
そして、叫ぶ。
「ありがとう」

悪口だって、沢山言いたい。叫んでやりたい。
けれど、そんなの、聞くほうが嫌な気分になるでしょう?
だから、お互いいい気分になれるような言葉を考えた。
「ありがとう」。そういわれて、嫌な気分になる人なんて、居ない。
大声を出すと気持ちがいい。ストレス解消にだってなる。

毎日、毎日。
公園へ言っては叫んだ。
風邪を引いた日は、行けなかったけれど、雨が降っているぐらいなら行った。
台風がやってきたら、さすがに行かなかったけれど。

それだけ通いつめていたら、噂のひとつやふたつ、立つものだ。
「今日もいらしてたわね、ありがとさん。誰なのかしらね?」
ありがとさん。それが私につけられたあだ名だった。

そのうちに、面白半分で待ち伏せるような人もやってきた。
そんな人が居る日は、景色を眺めるだけで帰った。
それで、正体はばれないと思っていた。しかし――

叫び終えた後のことだ。
「ありがとさん?」
どこからともなく現れた、少しばかし怪しげな男性に声をかけられた。
「い、いいえぇ。違いますけど」
とりあえず、否定しておく。めんどいから。
「嘘ついちゃあ、いけないよ。叫んでるとこだって見てたし、ありがとさんと同じ声だし」
見られていたのか。ストーカー?
「そうですか。私がありがとさんだったら何か?問題あります?」
ああ、我ながらつっかかりすぎだな。これだから、もう少し友好的になれって言われるんだ。
「いやいや。素敵な人だなって思っただけだよ」
「素敵?」
「うん。ありがとう、だろ?素敵じゃないか」
「はあ、そうですか」
素敵、かどうかは分からない。けれど確かに、ありがとうという言葉は、悪い言葉じゃない。

「ね、本名はなんていうの?ありがとさんじゃ、ないだろう?」
「…秘密です」
「え?」
「教えられません」
「え〜イジワル。いいじゃん、名前ぐらい」
「名前ばれたらここに来られなくなりますから」
そう、秘密で、こっそり。家族にも、内緒。恥ずかしいとか、そういうのでは無いけれど、こっそり叫ぶことに意味があるように感じている。

「そっか」
ああ。物分りの良い人みたいで、良かった。問い詰められるのがイヤで、今まで誰も居ないときに叫んでいたから。
「でもさ、ありがとさん、ってのも呼びにくいよな?何て呼べばいい?」
「は?」
「いや、だからさ、呼び名が無いと話すのに不便じゃん?」
「何故?これ以上話すことも無いでしょう?」
「ほえ…俺、これから毎日来ようかと思ってたのにな」
悩む私に、付け加える。
「君に会うためにさ」
「はあ?」
思わず、聞き返してしまった。私に、会う、ために?ワケワカラナイデス。そんな必要がどこに?
彼はクスっと笑って、何も言わずに立ち去った。クエスチョンマークで頭をいっぱいにした、私を残して。

続く

2007年1月18日 野津希美

あとがき

本当はかなり長くなる予定だったけれどどうも続かない。思いついたら書きますが、多分このまま…。
あ、「ありがとさん」の「さん」は敬称であり、それ以外の何者でもありません。