それからえんぴつ

再見・パンはこんがり、たっぷりバター

もし私の声が 彼に届くことがあるというのなら お願い もう1度――。

いつもと同じ、梅雨のじめじめした朝だった。いつもと同じ時間に起き、いつもと同じようにこんがりパンを焼く。バターをたっぷり塗るのが好みだ。カロリーが高そうだが、やめられない。おいしいのだからしかたないのだ。
たっぷりバターを塗った上におとつい作ったイチゴのジャム。隣の家で作っているイチゴを頂いたので、ことこと煮込んで作ったジャム。少しすっぱいが、おいしい。
パンを紅茶と一緒に飲み込む。

「ごちそうさま」

誰が居るわけでもないので、誰にいうわけでもない。しいて言うならイチゴをくれた隣のおばさんへの感謝だろうか。
食器をかたし、着替える。我が家は着替える前に朝ごはんなのだ。

「おはよ」

2階から伊織が降りてくる。我が家は2階建てで、1階にリビングや風呂、2階に個人の部屋がある。伊織はパンをこんがり焼く必要が無く、歯磨きの時間も短いため、日和より少しばかり起きるのが遅かった。

「おはよう、伊織」

朝の挨拶。これが最後になるだなんて、その時は知る由も無かった。

「今日はどこ行く?」

伊織が問う。

「そだねぇ。公園でも行きますか?天気いいし」

昨日とはうってかわって、窓の外で青さを見せ付ける空。

「ん。そだね」

いつもと同じような会話で、行き先が決定した。
しかし。
晴れていて、空が青いとはいえ、梅雨の日。土の地面はどろどろ、踏み込めば靴はぐしょぐしょ。

「あちゃぁ。これだから梅雨は嫌なんだ」

「ははは…この前出来た展望台、行く?屋根あるし…」

「おう」

急遽行き先は展望台に変更。行き先が変わっても、同じ空間に居られる喜びは変わらない。
展望台から見下ろす街は、昨日の雨で洗われ、キラキラと輝くようでそれはそれは美しかった。

「きれい、だね」

ふと、日和の頭の中にテレビが浮かぶ。
――星を見上げるふたり。「きれいだね」「きみには負けるよ」……
どんなことがあろうと、伊織がそんなせりふを吐くわけが無い。そのテレビを見ていた時だって、「星と人間を比べるのは――」だの何だのと難癖つけていたのだ。
予想通り、「ああ」とだけ言った伊織に、日和は何故かひどく安堵した。

「あ、うちのあたりが良く見える」

伊織が言う。

「ほんとだ。あ、お隣さんがイチゴ摘んでるみたいだよ」

「おお」

「ジャム、ちょっとすっぱかったねえ」

「え、そう?」

いつもと同じ、だと思っていた。伊織は本当に演技が上手い。だからずっと一緒に居た日和ですら、彼の変化に気づかなかったのはおかしくないだろう。けれど日和は、気づかなかったということにしばらく悩み続けた。

「ねぇ、ここから夜景が見たい」

街を見下ろすのは初めてでは無いが、この展望台は高さがあり格別だった。何より、街も様変わりしているのだ。たくさんのビルが建てられ、空が狭まった。それを、空と間違うような場所から見下ろすのは何か気分が良かった。きっと、夜景もきれいだろう。

「そだなー。夜、出直してくっか」

「うん」

伊織が快諾してくれたので、夜もここへ来る。

――「再見」

次の日、日和が伊織と挨拶を交わすことは無かった。
同じようにパンを焼いても、ジャムを塗っても。伊織が居ない。いつものように「おはよう」と言ってくれる伊織が居ない。

もし私の声が 彼に届くことがあるというのなら お願い もう1度――。

2007年3月1日 野津希美

あとがき

再見の続編(?)。パンをこんがり焼いたのは何の意味が…?