それからえんぴつ

背中を押せない

風を受け、髪をなびかせて、留美奈は学校の屋上に降り立っていた。
友達に出会い、裏切られ、好きな人を見つけた、学校。いい思い出、悪い思い出、沢山詰まった学校。
小さな学校だが、屋上は開放的で、意外と広く感じた。柵が錆付いている上、腰の高さも無いからかもしれない。その柵をひょいと乗り越え、髪を耳にかけた。

風が、心地よい。

ちらと下を向くと、クラスメイトの直斗が見えた。散歩中だろうか、まったりと歩いている。
これで見かけるのも最後になるかもしれないその姿を、しっかりと目に焼き付ける。やけに目にしみる。
すうと大きく息を吸い込み、涙をぬぐう。
ぬぐいきれずに、ひとしずく、涙が落ちる。
何故だろう、気づくはずも無いのに、直斗は歩みを止め、上を見上げた。
息を呑む。まさか、気づいては居ないだろう。
案の定、直斗はすぐに視線を戻し、再び歩き出す。

安堵の息をつく。
ふうというその音に気づいたのか否か――直斗が今度はこちらを見上げた。
「香野ー?何やってんのー?」
柵の外側に居ることははっきりとは分からなかったようだが、留美奈が返事をしなかったこと、ただならぬ雰囲気をまとっていることは、もしかして、という感情を抱かせた。
「っ…動くなよ!」
言葉は、風に乗って留美奈の元へと届く。留美奈は思う。
来る。階段を駆け上って、直斗が来る。止められる。それまでに――実行してしまわないと。
そうは、思うのだけれど。体がちっとも動かない。まるで、マリオネット。自分の意思で動けない。それどころか、自分の意思を持つことも出来ないのではなかろうか。
苦しい、苦しいよ。

屋上の扉が開く音がした。長く点検もされていないもので、蝶番が錆付き、動かすたび不快な音をたてる。黒板を爪で引っかくのと同じぐらい、不快な音だ。
「香野ッ」
直斗が駆け寄ってくる。足だけは速い。
「何」
冷たく、ひたすらに冷たく聞こえる留美奈のこえ。でも、実は、悲しみと喜びと感情を必死に押し込めたこえ。
「な、何って、何やってるんだよ!」
反して、人間らしく慌てふためいて、妙な暖かさを持った直斗のこえ。
「見れば、分かるでしょう?」

確かに、見れば分かる…きっと多分、予想でしかないけれど、もしかすると、飛び降りようとしているのかもしれない。そんなことは無いと、否定して欲しかったけれど、やはり、そうなのだ。
ならば、出来ることはひとつ。止めなくては。
柵を越える。必要以上にもたついてしまったのは、錆付いた柵と高さに恐怖を覚えたのか、運動神経が悪いのか。
「危ないよ」
このことばも、冷たくて。気遣って言っているのだろうけれど、そんなこと、微塵も感じさせなくて。直斗はふと、「何故俺はこいつを助けようとしているのか」と、疑問に思ってしまった。
別に、留美奈は直斗を傷つけようとして、冷たくしているわけではない。直斗の優しさに甘えれば、直斗に助けを求めれば、いずれお互いに傷つく。傷つくどころでは済まない事態に陥ってしまう。今のうちに、感情を押し留めておけば、そうはならずに済むから。必死になって、感情を押し込める。
つらくても、それが一番だと思うから。

「危ないのはそっちだろ」
留美奈の言葉に対して、直斗が反論する。
「危ないから、居るのよ」
そりゃあそうだと妙に納得させられてしまうが、ブルンブルンと強く首を振り、納得を追い払う。危ないことをさせてはいけない。
柵の内側に戻る。やはりもたつく。
「こっちに、戻って来いよ」
「何故?」
これくらいの切り返しは、想定の範囲内。
「…こっちに、戻ってきて欲しい」
「嫌。何であなたの願いを私が叶えなきゃいけないのよ」
ダメ。甘えては、いけない。助けられては、いけない。傷つくのは、彼。私じゃない。
だから、留美奈は直斗を傷つけるようなことを言い続ける。そうすれば、直斗は、助けようとしなくなるだろうと思ったから。
そんな留美奈の思惑通り、直斗はざっくり傷ついた。言葉は本当に鋭利な刃物になり得るのだと実感した。想定の範囲外だ。それでも。目の前に立つ少女を助けたいと、直斗は思う。

「お願い、頼むよ。こっちへ戻ってきて」
大切に、思うから。大切だと、思うから。守らなければいけない。大切なものは失いたくない。ただ、それだけなのに、伝わらないのか。もどかしい。まどろっこしい。けれども、伝えなければならない。絶対に、伝えなければならない。大切なものは失いたくないから。
ひたすらに、直斗は願う。この思いが、留美奈に伝わるようにと。
しかし、願いに反して、留美奈は首を横に振る。
「ダメ、ダメなの。これ以上傷つきたくないし、傷つけたくない」
ふるふるとゆるく首を振り続ける。だめ、だめ、と呪文のように唱えながら。
「傷つけたく、ない?」
優しく問うても首を振り続けるばかり。目に涙を溜める。
「何がだめなの?何で傷つくの?俺には何も出来ないわけ?」

涙をこぼしても、言葉はこぼさない。いい加減、直斗も耐えられなくなってきた。確かに、留美奈を大切に思うし、それは嘘じゃないけれど、でも、それが信じられない。何故、自分は、この人を大切に思うのだろう。理由も分からない。
「バカ…香野のバカッ」
友人の口の悪さがうつってしまったようだった。彼は普段、とても落ち着いていて声を荒げたりはしないし、口調も柔らかい。
「言ってくれなきゃ、わからないだろう。何がダメなんだよ。傷つくってどういうことだよ。言うか言わないかどっちかにしろよ」
命令ともとれるその口調に、やっと、留美奈が口を開く。
「だって…ダメ。傷つけられない。泉谷くんは、傷つけられない。これ以上みんなを傷つけられない。私がここにいたら、みんなが迷惑する。みんなを傷つける。だから、居なくならなきゃいけないの」
「どういう、意味、だ?」
いまひとつ、言っていることが理解できない直斗に、留美奈はきつく言い返す。
「私はここにいることを望まれていないでしょう!」
「は!?何言ってんだ!?俺が、お前を嫌いだとでも言うのか?」
「だって、そうでしょう」
「俺は…俺は、きっと、お前を好きだ。好きで…大切で…必要だと、思ってる」
ずっと、胸に秘めていた言葉。親友にも教えなかった気持ち。まさか、こんな状況で告白をするとは思っていなかった。
なのに。それでも。
「そんなの、嘘よ!目の前に、飛び降りようとしている人が居るのに、止めないわけにいかないからでしょう。あなたは優等生だから」
留美奈はまだ抗い続ける。
「ユートーセーだから?バカにすんなよ。嫌いな奴が死のうとしてたら、俺は喜んで背中押してやるさ」
そう言って、直斗は留美奈を後ろから抱きしめた。飛び降ることなんて出来ないように、きつく、きつく。言葉は続く。
「でも、香野の背中は押せないよ…」

直斗の言葉を聴いて、留美奈は諦めた。自分を抱きしめる、この手から逃れることは出来ないと悟った。
直斗の手を解き、軽やかな動きで柵を乗り越える。
「…私を必要としてくれる人が居るのなら、生きていてもいいかもしれない」
俯きつつも、微笑んで言う留美奈。

直斗もにっこり、笑った。

続く

2007年3月14日 野津希美

あとがき

シリーズ第一弾!
あれ、何かまた投身しよーとしてる人が……。